深呼吸クラブ・ヘッドメニュー
 
アヤシい時の概念


エッセイに関係する映像です

 世界の僻地を旅すると、時の概念がアヤしくなる場面によく遭遇する。アジアの田舎のローカルバスは、定時というのがなく、満員になってはじめて出発することが多い。
 インドの壮年たちは、天気の良い平日の日中、公園でピーナッツを食べながらいつまでもおしゃべりしている。ニューギニアのジャングルでは、子どもたちが何時間にもわたって、われわれ異邦人の手を握り一緒に歩いてくれた。
 チベット高原では善男善女が、尺取り虫に似た動作を繰り返しながら、聖地への巡礼を一年がかりでおこなっている。不老長寿の里として名高いパキスタンのフンザ地方では、百歳以上と思われる老人たちが、日だまりの中、畑でくわを握る。ヒマラヤの山麓では、太古の時代からアンモナイトの化石が、二億年の時を超えて悠久の眠りについている。
 同じ地球に住んでいるのだから、世界のどんな僻地にも朝が来て、昼が過ぎ、夜を迎えるというサイクルは一緒である。ヒトとして送れる人生の長さもほぼ同じである。にもかかわらず、私たちと何と違っているのだろう。
 秘境・辺境と呼ばれる土地から帰国するとき、私の体内時計の時差ボケは意外と早く修正できる。しかし、時の概念をつかさどる脳内時計の時差ボケはますますひどくなっている。なにしろ日本は目まぐるしい。都会を歩くと、恐ろしいと思うことさえある。朝夕のラッシュ時は、一分おきに発車する地下鉄。その地下鉄に乗るために、人々はとんでもないスピードで歩く。
 私たちは、秒針が刻む無機質な時に身を任せすぎてはいないだろうか。わき目も振らずに歩いていると、表情は乏しくなり、考えることもできなくなる。今の生き方以外の生き方に思いを致すこともできない。慌ただしい流れの中で、人生そのものをゆっくり歩こうとしている人たちは、はじき飛ばされてしまう。
 世界共通の時の概念が、文明を支えていることは事実である。しかし、つかの間でもそこから離れてみて、自分の脳内時計の時差ボケを明るく楽しむ心のゆとりをもつことこそが、人生の刻み方を豊かにはしないだろうか。時の呪縛から脱出する旅は、自分を見つめ直す旅でもある。

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