深呼吸クラブ・ヘッドメニュー
 
極上のひととき


エッセイに関係する映像です

 アルプスの国スイスを訪れる日本人は年間百万人近いといわれている。スイスやオーストリアに対して私たちが抱くのは、アルプスの峰々や高原の湖などのクリーンなイメージ。アニメの「アルプスの少女・ハイジ」や映画「サウンド・オブ・ミュージック」によって素晴らしい山岳風景に親近感を抱いているからだろう。スイスの国土は九州よりやや小さい程度なのにもかかわらず、その中になんと約五万キロにも及ぶハイキングコースが整備されている。地球一周分の四万キロを超えるほどの距離だ。夏ともなれば、世界各国から、絵のような山岳風景をバックに、自分の足で「思い出」という絵を描きに訪れるハイキング客で賑やかになる。

 山麓を歩いていると、シルバー世代の夫婦連れ、子供を肩車した家族、明るい学生グループなどにすれ違う。「ハーイー」「ボンジュール」「コンニチワー」など、各国の挨拶が笑顔とともに飛び交う。高原の牧草地からは、カウベル(牛の首に付けた大きな鈴)やアルペンホルンの音色が、心地よい風に乗って、どこからともなく聞こえてくる。その音色は、自銀のアルプスの峰々から緑深き谷間まで静かに流れてゆく。そうしてマッターホルンを仰ぐ位置にたどりつき、ザックをおろしての休憩となる。そこで、足を投げ出し、草地に寝そべる。山頂を見上げると、流れる雲。風の強い日には、まるでまつわりつくように刻一刻とその形を変えてゆく。私たちは、ただそれをじっと見つめている。だれも何も話さない。静かな時間だけがそこにある。そしてふと気がつけば、地面からは花や草の香り……。極上の時間の費やし方といえないだろうか。

 スケジュールに追われる旅にはない旅である。スイスアルプスのハイキング道は、世界でも最も贅沢な散歩道なのである。旅とは、移動距離をいたずらに長くして多くのモノをただ単に「見る」ことではないと思う。帰国後アルバムに張る写真の数の多さでもない。旅先で感じた心の贅沢をこそ、人生というアルバムに記憶させたかどうか。それが、旅の質の深さを計るバロメーターではないだろうか。
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