深呼吸クラブ・ヘッドメニュー
 
心の玉ネギの皮


エッセイに関係する映像です

 世界の辺境への旅を案内していると、「人生観が変わった」という言葉をよく聞く。私の旅への参加者の多くは、中高年の方々である。男性も女性も、社会や地域で着実に生活の基盤を築いてきた方ばかりだ。そんな方々の人生観を、辺境への旅が見事に変えてしまうのはなぜだろうか。ヒマラヤ山麓歩きの旅の朝。ある熟年の夫婦が涙を流しながら、その言葉を呟いたときのことを思い出す。その日の朝は、肌を刺すような寒気に見舞われた。テントから覗くと、朝露に濡れる草地に二人は立っていた。朝の冷たい静寂を破るように、鶏鳴と人馬の声がどこからともなく聞こえ、やがて朝の柔らかい光線が、神々の座と呼ばれるヒマラヤに射し始めた。それから約十分間、二人の前では大自然が織りなす壮大なドラマが展開した。暗闇に浮かんでいた白い山肌が、薄ピンク色から、黄金色へとゆっくりと変化していった。二人は、言葉を失い、静かに深呼吸を繰り返していた。

 この短いドラマの後、「人生観が変わった」と呟いたのだ。旅は玉ネギの皮をむくような行為だと私は思う。安定してはいるが、少々退屈な日常は、心から緊張感を失わせ、ため息の多い生活を生んでゆく。いつのまにか心は、常識や固定観念、先入観という玉ネギの皮で覆われてゆく。皮が固くなると、心の五感である感性の色彩までが色あせはじめる。旅とは、予測可能な日常の習慣的生活からひととき脱出する行為だ。未知の世界にわが身を浸し、自分の魂を浮遊させることができる。非日常という不安定な海の中で、浮遊する魂はさまざまな事象に出会ってゆく。大自然が演出する一回きりの壮大なドラマや辺境に住む人々がかいま見せる豊かな心の表情……。

 おもわず深呼吸をしたくなるような場面にも遭遇する。そして魂が揺さぶられるような出会いの瞬間、心の中では感動という火花がスパークするのである。その感動の火花が、固くなりかけた玉ネギの皮を溶かしてくれ、心に豊かな感性の色彩を蘇らせてもくれる。
 「人生観が変わった」とは、心の玉ネギの皮がポロリと落ち、隠れていた心の輝きが見えたときの言葉ではないだろうか。

深呼吸クラブ・デコレーション