深呼吸クラブ・ヘッドメニュー
 
氷のささやき


エッセイに関係する写真です

 クルーズ船のエンジン音が突然消えた。その瞬間、私を含め船の同乗者全員は、身をデッキに乗り出した。そして両耳に神経を集中させ、海面からの音を聞いていた。パチパチパチ、プチプチプチ……抜けるような紺碧の空には雲ひとつない。風もほとんど吹いていない。海面には、コロンビア氷河から流れ出る氷塊が、プカプカと数知れず浮かんでいる。遠くの海面を漂う氷塊の上では、ラッコやアザラシが昼寝している。昼下がりのアラスカの海に浮遊する氷塊のすべてから、その囁くような小さな音は聞こえてきた。

 氷河は、一年間に数センチという気の遠くなりそうな歩みで海へと向かう。太古の時代から凝縮され固まった氷の細かい粒子の間には、空気の泡が含まれている。海に押し出された氷は、生物の母である海の温かさに触れ、少しずつ溶け始める。そのとき、粒子の間でひっそりと身を潜めていた気泡たちが、氷の囁く音となって弾け飛ぶのだ。氷の中で、まろやかに熟成し、再生のときを待っていた気泡の弾ける音は、聞く者の鼓膜を心地よく振動させていた。クルーズ船のスタッフが、タイミングよくウイスキーのグラスを運んできた。海面から引き上げた氷塊を砕き、それぞれのグラスヘ落とした。私は目をつぶりグラスをそっと耳元に近づけた。

 「あっ、聞こえる」。グラスという世界一小さなシンフォニーホールで太古の気泡たちが奏でる音楽が流れ始めていた。船のデッキにいる同乗者やスタッフ全員の頬にも、幸せ一杯の微笑みが浮かんでいる。この瞬間、私は思っていた。「ああ、みんなの心で幸せのハーモニーがはじまった」。そう思い始めると、不思議なもの。氷塊の上で昼寝をしているラッコやアザラシまで交響楽団の一員のように見え始めた。氷塊から弾け出る太古の気泡は、私たちに自然との清々しい一体感を感じさせてくれた。

 「心の涼をお届けします」という一文とともに、お中元としてアラスカの氷を何人かのアルコール愛好家へ送ってみたことがある。太古の気泡は、期待通り知人の鼓膜のそばで弾け飛んでくれたようだ。清々しい気持ち−心の涼を感じることは日常生活ではそう多くはない。暑い夏には、心の涼を感じるひと時を贈り物にしたみたらどうだろう。

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