深呼吸クラブ・ヘッドメニュー
 
混在する生と死


エッセイに関係する写真です

 大阪に住むバングラデッシュ出身の友人から、インドのコルカタ(カルカッタ)へ飛ぶと聞いた。おじさんが亡くなったという。彼は二十年ほど前、単身日本へわたり皿洗いから始め、今では貿易商社を営むまでになっている。スケジュールをやりくりし、葬式のために海を越える。彼によると、インドなどのヒンズー教徒は、身内の死後約半月から一ヶ月後にお葬式をする。その期間、家族は白装束となり、男性は髪の毛を剃るという。

 話を聞きながら、私はインドにある聖地・バラナシ(ベナレス)を思っていた。ガンジス河畔にあるガートと呼ばれる所では、昼夜を問わず遺体を荼毘に付す炎と煙が絶えない。初めてその光景を目の当たりにしたとき、気を失うくらい圧倒された。焼き場の人が長いさおを持ち、死者の内臓をひっかきまわしたり、頭蓋骨を叩き割ったりしている。火の通りをよくするためだ。煙っている灰と薪は、さおでガンジス河に流し落とす。次から次へと遺体が運ばれ、淡々と同じ作業が昼夜を問わず繰り返されている。夜は川面に、死者を供養するための花と灯明を載せた小さな葉が流される。ところが、朝日が昇る前から、死者の灰を流した下流で、身を清める沐浴が始まる。すぐそばでは、洗濯屋が心地よいリズムでシーツを洗濯石に叩きつけている。子供たちは喚声をあげて、河に飛び込んでいる。多くの人生の終末が、日常の風景と背中あわせに混在している。まるで、生と死のスクランブル交差点。私の頭の中は、こんがらがった。

 人の一生って何なんだろうか。生きる、死ぬってどういう意味。なぜ、人は生きようとするのか……。酷暑の中、泣きたい気持ちで物思いに耽ってしまっていた。ガンジス河の水は、インド洋へ注ぎ、水蒸気となり、雲になってヒマラヤ上空へと戻る。そして雨となり再びガンジスヘと帰ってくる。亡き人のことを、喪に服しながらゆっくりと心に納めてゆくヒンズー教徒の死生観の背景には、大きな自然のサイクルがある。その大きな循環と比べれば、人の一生なんて、なんとはかなく短いものなのだろうか……。だからこそ、永遠に続くと思いがちな大切な人たちとの時間を、私たちは心の中でもっと大事に輝かせたい。

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