深呼吸クラブ・ヘッドメニュー
 
内なる巡礼


エッセイに関係する写真です

 平均標高四千メートルを超えるチベット高原の西はずれに、カイラスと呼ばれる山がある。万年雪を抱いたこの山は、インダス河やブラマプトラ河といった、アジアの大河の源流地帯に独立峰として屹立している。チベット仏教徒やヒンズー教徒たちにとってこの山は聖山であり、巡礼の目的地でもある。現在でも多くの巡礼者たちが、徒歩や五体投地と呼ばれる巡拝スタイルでこの山を目指している。はじめて五体投地を見たとき、信仰への強烈な力と時の概念のギャップに呆然とさせられた。

 五体投地は、まず自分の体を地面に投げだす。そして尺取り虫のように起き上がり、また体を投げだす。延々とこの動作を繰り返しながら聖地へと向かうのであるが、一回に背丈分くらいしか進まないので、一日にほんの数キロ程度しか動けない。全身埃まみれの服は、肘や膝の部分がボロボロになっていて、額から血を流している人もいる。聖山カイラスは、チベットでも隔絶された辺境の場所にあるので、巡礼に一年以上かける人もいると聞く。聖地への巡礼者は、所属する社会をひととき離れ、自らの精神と肉体に負荷をかける。その苦行の果てには、心の充足感という信仰上の至福の瞬間が待っている。

 日本でも巡礼が静かなブームらしい。私の周りでも西国八十八ケ所を巡った人の声を聞く。失恋の痛手を癒すために、野宿しながら歩いてきたという二十代女性がいる。先立たれた息子の写真を胸に、六十代の女性はゆっくりと札所を巡ったという。気がついたらお遍路の仲間入りをしていた倒産会社の社長もいた。リタイアした五十代後半の夫婦は、ウォーキングの延長として仲睦まじく歩いている。旅立つ動機はさまざまだろうが、信仰無き時代にもなぜ巡礼路は人々をそこまで引き寄せるのだろうか。物の不足をあまり感じることのない日常生活。しかし、ふとこれまでの人生を振り返った時、満たされていない心に気がつくことがある。何か人生で置き忘れたものはないだろうか。大切な何かを失ってはいないだろうか……。目には見えない心の不足感に気がついたとき、人は巡礼路へと旅立つ。それは自分の心の辺境にある空白地への旅ではないだろうか。

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