深呼吸クラブ・ヘッドメニュー
 
縁側のアルバム


エッセイに関係する写真です

 「おお、よう来たの〜」「まあ、上がれや」。その声は、縁側に腰かけキセルの掃除をしていた祖父だった。畑仕事の途中だったのか、足元には泥がついていたような気がする。秋晴れの昼下がり、ポカポカ陽気に誘われて家の縁側に座り、子供の頃を思い出していた。家の前の田はすでに刈り入れが終わり、ひこばえが静かに風に揺れている。息をゆるやかに、そして深く吸い込んでみると、とたんに私の心は穏やかな心地よさで包み込まれた。懐かしい人の顔や幼い頃の楽しかった日々を縁側が思い出せてくれたのだろう。また、こんなこともあった。夏の夕暮れ時、家の中を開け放って、縁側でビールを飲みほろ酔い加減になっていた。ふとそのとき、家の外の風景と内の風景が徴妙に溶け合うような感じがした。家の中にいるのか、外にいるのか分からない心地よいとまどいの時間だった。

 今はあまり見かけなくなった縁側は、通りがかりの人やご近所さんも、靴を脱ぐことなく、ほんの束の間腰を下ろすことのできる場所でもあった。そこでは、表玄関での改まった会話でもなく、勝手口での日々の生活会話でもない、ほっとするような語らいの時が流れていたように思う。靴を履いたままで他人の家の一部に、チョット腰を下ろし、安らぎのひとときを味わう……。なにかに似てないだろうか。旅とは、異邦人という靴を履きながら、現地の風景や人々の日々の表情という縁側に、ほんのひととき腰を下ろさせてもらうことかもしれない。いままで、数多くの辺境の土地を訪れて、さまざまな人たちと出会ってきた。現地の家庭に居候したときには、家族たちが見せる悲喜こもごもの表情があった。酒の勢いで義兄弟の契りを交わした人もいた。独身の頃には現地の女性に淡い恋心をもったこともあった。ささいなことで、お互いの誤解が増幅してゆき、一触即発の危険な状況もあった。

 旅先での心温まる思い出、淡く切ない思い出、ほろ苦い思い出は、しっかりと私の記憶というアルバムに刻まれている。日常の生活の中で、なにげなくそのアルバムを開いて見ることがある。その瞬間私の心の縁側では、時空を超えて辺境の風景と目の前の風景が溶け合っているのかもしれない。まさに縁側とは、人と人との縁を結ぶ空間ではないだろうか。

深呼吸クラブ・デコレーション